最古の伝記集「霊湯山福泉寺縁起」「日本高僧伝」には、天竺霊鷲山の聖人の1人「法道仙人」がこの時代に中国・朝鮮・九州を経て、播磨国に飛来したと記されております。
孝徳天皇(645年~654年)の信任も厚く、法華山を始め、諸国に堂塔伽藍を建営し民心を導いたと言われる「法道仙人」が諸国巡錫の道すがら、この有福の地に足を留めたのが、白雉2年(651年)頃。
そしてこう続いております。
「仙人は有福の静寂な仙境を歩いているうちに岩間から忽然と温泉が湧き出るのをみた、仙人はその地に、無量寿仏像、左右観音勢至、持来の聖観世音菩薩と自彫の石体薬師仏を安置しこの地を去った。この霊泉は昼夜の別なく湧出し、試浴するに心身爽快、永年の痼疾も軽快になった。霊験あらかたの評がたち、寒暑、遠近の別なく湯浴の客が増してきた。」
こうして有福温泉の長い歴史が始まりました。
時に幕府は財政再建と支配体制の再編を行ったいわゆる「享保の改革」の頃。
改革と共に街道の整備が進み、宿場町として宿が発達して参りました。
現存する有福温泉の旅館はこの当時創業したと言われ、旅館ぬしやの創業も寛延元年(1748年)頃と伝えられております。
江戸時代に活躍した朱子学者「頼山陽(らいさんよう)」が「有福温泉のぬしやで2週間湯治をしている」と書き送った
手紙や、宝暦元年(1751年)に書かれた有福の地図からも「旅館ぬしや」の歴史を垣間見ることができます。
今から250余年、昔の話でございます。
近隣が軍事関係の消費地として発展すると、有福温泉は軍傷病兵の手当て及び慰安所として徴用されるようになります。
こうして永く湯治場として愛された有福温泉は花街として栄えるようになり、それは戦後まで続いてまいりました。
石見の国の国司として赴任した
柿本人麻呂が愛した「有福温泉」
由来は「福ありの里」と
語り継がれています。